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鶴見川には、古くは杉山神社を創建したといわれている氏族が、房総半島から東京湾を経て鶴見川を溯って来たといわれています。また、新羽の西方寺も、室町時代に舟で鎌倉の極楽寺から相模湾、東京湾を経て鶴見川を溯って新羽に移転して来たといわれています。鶴見川には、古くからこのような伝承が流域にあります。
しかし、本格的に鶴見川で舟運が行われ出したのは、江戸時代からで寛政11年(1799)の『鶴見村村方之儀明細書上帳』に「橘樹郡太尾村辺マデハ通船コレアリ、漁業ノ稼ギゴザナク候」と、また明治14年(1881)に陸軍参謀本部が地図を作成するために行った調査をまとめた『偵察録』には「鶴見河:綱島橋迄50石積海舟ヲ容ル、小艇デ小机村木堰迄溯レル」と記されています。また、明治11年(1878)記述の「地誌編輯書上 第三大区弐小区 武蔵国橘樹郡小机村」(『横浜市港北区皇国地誌』より)には、「鶴見川幅12間最モ深キ所9尺浅キ所4尺ニシテ筏舟通スレトモ舟ハ通セス水勢緩ニシテ水質濁リ」と記されています。物資を輸送する舟運の終点は、旧鳥山川河口にあった太尾橋迄で、ここから小机の堰までは筏か、ごく小さな舟底の平たい舟だけでした。
また、当時の鶴見川は、蛇行していたので鶴見では「九十九曲川(つくもかわ)」と呼ばれていたこともあり、潮田の「潮田のガラ洲」と駒岡の「岩瀬の岩床」と呼ばれる岩礁があって舟の往来は苦労したようです。しかし、陸上交通が大八車や牛馬であった江戸時代から昭和初期頃までは、鶴見川流域の地域からの米、肥料、特産品、生活物資などの運搬には、鶴見川の舟運は必要でした。
一般に、河岸は舟の発着する場所と解釈しています。
しかし、舟運史研究の第一人者の川名登氏は、河岸と言葉が使われ出したのは近世以降で、中世では舟の発着場を「津」と呼んでいたと著書『河岸』に記しています。川名登著『河岸』によると、近世に入ると「津」という言葉は使われなくなり、「河岸」という言葉が使われ出し、文献上最初に現れるのは寛永11年(1634)の「鬼怒川河岸」で、単に呼び方が変わったというのではなく、その性格も大きく変化していると記しています。
近世になると、石高制の経済構造になり、大量の年貢米を輸送するために「河岸」が誕生し、単に舟が発着する場を指すのではなく、物資輸送の機構とそれに関係する人々の住む地域を含めた全体を云うようになりました。
年貢米の輸送は、最初は領主自身の手で行われていましたが、その後名主や有力農民の手に移っていきます。これは、名主や有力農民が舟を建造し、領主の要請にこたえたのです。舟を持った名主や有力農民は年貢米輸送を請負うばかりではなく、それ以外の物資輸送も請負うようになり、さらに自分で所有する舟ばかりでなく、他の舟が請負った荷物も積むようになって、近世中期になって河岸の中心となる「河岸問屋」が誕生しています。元禄期には、利根川、荒川水系を中心に80余の河岸の所在が、幕末には300余の河岸があったと推定されています。
鶴見川の場合は、20個所程の河岸と呼ばれる個所がありますが、調査すると利根川・荒川の河岸のように河岸問屋を頂点としたものではなく、単に舟の発着場を河岸と呼んでいたようです。その理由として考えられることは、鶴見川舟運の範囲が河口から太尾橋までと流域が狭いことから、河岸問屋の役目は河口の回船業者と河岸にある地元の有力者間で行われていたと考えられます。例えば、綱島河岸では南綱島村名主の池谷家は「河岸」という屋号で、現在年貢米を運んだと云われている御用船を持ち、明治時代中期には五大力船などの多くの川舟を所有していることから、河岸問屋的な役割を果たしていたと考えられます。また、大正5年(1916)には、河口付近には回船業者が16軒あったといわれています。
なお、港北区内には綱島河岸、太尾河岸、小机河岸と、支流の矢上川に袋河岸の4個所の河岸がありました。
大綱橋の下流50m~100mの所に綱島橋があって、その下流の現在のビーチゴルフ場付近の河川敷付近と、対岸の樽町側に舟の発着場がありました。昭和30年代頃迄綱島側には、千本杭といった舟の発着場跡の杭があったといわれています。さらに、幕末から明治期になると、大綱橋際のローソン付近に飯田家の氷蔵を出来、近くに製氷組合事務所と天然氷出荷用の舟の発着場も出来ています。
綱島河岸からは、近隣の村々の年貢米輸送から始まって、伊豆石、多摩川の砂利、江戸や横浜からの下肥、石工が製作した石造物、天然氷、温泉の湯などが搬入、搬出されています。元県会議員の島村尚美氏(樽町在住)は、『港北区制70年記念誌、港北区の境域と記憶』に「うちの前の鶴見川の河岸は肥舟の発着場でした。満潮の時に上がって、引き潮に下った。」と語っております。
その河岸周辺を橋場と呼び、旅館、料理屋、酒屋、雑貨屋、床屋等があり、付近一帯は小さな宿場の形をして、唯一の綱島の盛り場でありました。
また、旧大正堂家具店(現パチンコ屋)の横の階段を下った所の道は、以前は鶴見川のバイパス水路で、現在ホテルの駐車場になっている付近に、屋号を「船頭」という家がありました。
鶴見川と鳥山川の流れは現在とは異なり、旧鳥山川は太尾緑道を流れ、大倉山6丁目付近で鶴見川と合流し、その付近に太尾橋と太尾河岸がありました。また、対岸の新羽町側にも舟の発着場がありました。
当時は、鶴見川の流れも現在より東側に曲がって流れていました。戦後、太尾町、新羽町等の人々の手で工事が行われ、現在の流れになったといわれています。工事は大変でしたが、当時現金収入の少なかったので人々には喜ばれたようです。また、昭和30年代まで対岸の新吉田町に、太尾町(現大倉山)の飛び地があったことから、さらに鶴見川は新吉田町側に蛇行していたと考えられます。
太尾橋は、中原街道に通じ背後に都筑の村々があったことから、太尾河岸は舟運の物資の集散地になり、東横線が開通し大倉山駅が出来るまで太尾の表玄関として栄えていました。
太尾河岸は、江戸への年貢米、天然氷、寒そうめんなど特産品の搬出、また江戸や横浜の市街地からの下肥、石工が造った石造物などの搬入があり、付近には、三倉屋、奥沢屋、酒屋、たび屋、煙草屋等があって大変賑やかでした。
『武州橘樹郡神奈川宿村々地頭姓名其他書上帳』の小机村の項に、「鶴見川附ニ而河岸場壱ケ所字中瀬ト申候」とあります。現在の川向橋近くの中瀬に小机の堰があり、その付近に小舟が発着する場所があったようです。しかし、明治期の小机旧家を記した図にも河岸、舟運に関係する屋号の家が見当たらないので、河岸に関する詳しいことはわかりません。
また、『神奈川宿村々書上帳』に「河岸場壱ケ所字川向河岸ト申候」と、対岸の川向村にも河岸があったことが記されています。
日吉6丁目の一本橋から矢上橋あたりを、字袋河岸といわれています。市立矢上小学校編『わたしたちのやがみ』に、「矢上川を行き来する舟の発着場がありました。袋とは、行きとまりのことで、これ以上上流は川底が浅くて、舟が入れないという意味です。」と記されています。これらの舟は、大森、品川付近まで行き来し、農産物や下肥を運んだりしていました。付近には、屋号を「こやしや」「せんどうさん」と呼んでいる家があります。