舟運復活プロジェクト
   
 
1.舟運の歴史研究     2.港北歴史点描     3.港北歴史探訪(1)     4.港北歴史探訪(2)
 
舟運の歴史研究
鶴見川
暴れ川だった鶴見川(洪水と旱魃)
 
鶴見川は、全長42.5キロの一級河川である。河口から第3京浜までの17.4キロは
国土交通省が管理している。鶴見川は昔から洪水を繰り返してきた。
港北区内の平地はその大半が鶴見川やその支流である大熊川、鳥山川、早淵川、
矢上川などによって形成されたものである。その本流である鶴見川は、川の勾配
が緩いために水の流れが遅く、その上に流路が大きく湾曲しており、また川幅が
狭いため、大雨が降ると洪水になりやすい特徴をもっている。港北区域から下流
にかけては川底が岩盤になっていて、容易には掘り取れないため、下流の川床が
比較的浅い状態にあったこと。さらに、上流にある恩田川や区内で合流している
大熊川以下の支流が、支流とは呼べないほど大きいため、そこから大量の水が流
れ込むといった悪条件が重なっていた。そのため、区域での大雨はもとより、上
流地域だけの集中豪雨でも氾濫することがあった。
水はけの悪い低湿地で洪水水害に悩まされただけでなく、旱魃(かんばつ)の被
害も受けていた。これは、鶴見川が川の勾配が緩いために河口から海水が昇りや
すく、満潮時には新羽橋の近くまで来たことによる。そのため、鶴見川からの農
業用水確保が困難であり、水はけの悪い低湿地でありながら、少し日照りが続く
と旱魃の被害を受けたのである。
農業に依存していた昔の人々は、その対策として多くの溜池を作った。現在では
ほとんどが埋め立てられてしまったが、昭和30年代頃までの古い地図を見ると、
溜池の存在がよく分かる。諸岡熊野神社の「いの池」は、片目鯉の伝説で有名で
あるが、わずかに現存する灌漑用溜池の一つである。水害と旱魃の両方の被害を
受けたため、区域の農地は生産性が低く、人々は大変苦労した。特に大曲周辺の
新羽・太尾地区の苦労は大きく「新羽や太尾へ嫁・婿にくれるな。蛙が小便して
も大水が出る」とまでいわれた。
現在は、洪水治水対策として平成15年6月15日に多目的遊水地が運用を開始した。
84ヘクタールに39億リットルの水を貯められる。平成16年10月の22号台風の時に
は125万立方メートルの水を貯めて、川の水量が調整された。
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舟運の歴史
 
良くも悪しくも昔の人々は川と共に生活をしていたのである。鶴見川に河口から
海水が昇りやすいことは、住民に利益をもたらした。満潮時に新羽橋の近くまで
遡行する水流を水運に利用したのである。道路が整備されてトラックなどの陸上
輸送が盛んになる大正初期までは、水運は物資輸送の中心を占めており、旧太尾
橋や大綱橋の近くにあった河岸を中心に商店街も形成された。
中流域で生産された桃や素麺、氷やツトッコ(麦藁のビール梱包材)などが出荷
された。樽村の小島孝次郎は、井戸から涌いた水を使って湯治場を作ったり、鶴
見川を利用して、3日に1度舟にこの水を積んで鶴見方面の銭湯に運んでいた。
荷10銭。井戸から汲み上げた温泉水を、鉄板を張ったリヤカーで河岸へ運び、舟
に乗せて運んだといわれる。流域の寺院の石材や資材も下流から運ばれたし、農
地の生産力を上げるための肥料の下肥(人糞)も舟にて運ばれた。
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綱島と大綱橋エリア
 
縄文時代、現在の新横浜地区まで海の入り江だった。ちょうど綱島地区は細長い
島上であったために綱島といわれているようである。昔より交通の要所であり
1405年(応永12)に綱島橋が架けられた。江戸時代は7年に1度位補修をしていたと
いわれている。この綱島橋は、現在の大綱橋の少し下流にあった。
明治22年に大綱村が出来た時に、「大綱橋」と改称された。当時は、木造の太鼓
橋で、両岸の土手の内側、河川敷から水流の上にだけ架けられていた。昭和12年
に鉄筋の橋に架け替えられた。開通式には、横綱武蔵山や綱島温泉の芸者衆など
が渡り初めをしたという。現在の橋は、西側が昭和45年(1970)に、東側が昭和52
年(1977)に竣工。下流に鷹野橋があるが、これは江戸時代に鷹場があったことの
なごりである。
明治43年(1910)の大洪水を契機として、県が中心となり両岸の堤防を改修し、大
正3年(1914)に完成記念として大正堤の桜並木を作り、桜の名所となった。この
時の築堤工事で、家を移転しなければならなくなった加藤順三(屋号を「杵屋」
という)さんが新しく井戸を掘ったところ、飲用に出来ない茶色の水が涌いた。
これが綱島温泉の始まりである。この当時、桜の名所と綱島温泉でたいへん賑
わっていた。堤防はその後、昭和13年の決壊で作り直され、昭和27年にほぼ現在
の高さの堤防となった。綱島での鶴見川花火大会は、昭和59年(1984)に始まった
が開発により平成11年(1999)7月30日の第16回(3,000発)を以って中止となった。
大綱橋
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太尾河岸と太尾橋エリア
 
大綱橋の上流にあったのが太尾橋であり、大倉山の尾根を太尾見晴らしの丘公園
から下った位置、現在の新羽橋の少し下流に、昭和50年頃まであった。鶴見川は
この辺りまで潮が遡りそれを利用した舟運が盛んで、この辺りに太尾河岸があっ
た。この太尾河岸からは、ビール瓶の梱包材に使われた麦藁のツトッコが出荷さ
れていた。
現在の鳥山川は、新横浜駅の近くで鶴見川がカーブを描いている場所(いわゆる
大曲)から分岐している支流の一つであるが、江戸時代から昭和40年代までは、
太尾橋の辺りから分岐し、現在の太尾新道沿いに大曲の辺りまで流れていた。
この川は、鶴見川の水害時の水量を減らす分水路であり、塩分を含まない真水の
用水路として、干害に悩む太尾村の人々に重宝がられた。元禄14年(1701)には鳥
山川からの用水の利用に関する取り決めがなされていることから、鳥山川はそれ
以前に完成していたものと思われる。一時はシジミがたくさん採れ、そばの堤防に
桜が植えられて「桜並木」とまで呼ばれた並木道もあった。このきれいだった川も、
都市化と住宅化のあおりを受け、治水体制の整備が進んだこともあって、埋め立
てられて、昭和50年の太尾新道の開通とともに消えた。
太尾橋 昭和30年代
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亀甲橋エリア
 
太尾橋が大倉山の尾根下にあったように新羽の尾根を下った所に亀甲橋があった。
このように尾根下に橋ができたのは、洪水を繰り返していた歴史によるものであり、
水が引き始めるところにあったようである。また、支流の大熊川が合流する場所で
もあり、川底が岩盤になっているので鮎が溯上してくるポイントになっている。
新羽丘陵側の対岸には小田原北條氏の軍事上拠点となった小机城址があり、太田
道灌の城攻めでは亀甲橋上の新羽丘陵側に布陣が張られた。ここには富士山信仰
の浅間神社があり昔から富士山が見える場所であり、国土交通省関東地方整備局
が選定した「関東の富士見百景」のひとつとなっている。現在は多目的遊水地を
見渡すことができる。
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