鶴見川舟運復活プロジェクト 活動の概要


鶴見川舟運復活プロジェクト

鶴見川流域で発見された和舟

 鶴見川舟運復活プロジェクトの口コミから、鶴見川中流域に残っていた和舟がいくつか発見されました。 今までに綱島で2艘、樽町で1艘がでてきており、いずれも地元の旧家で保存されているケースです。 舟の用途としては「御用船」や「水害予備船」とされている。また、農作業に使用された「田舟」もいくつか発見されています。

鶴見川流域で発見された和舟

舟を造ってみようじゃないか「ボート建造プロジェクト」

 川の近くで生活していても陸の上で生活していると「舟」とは距離があり、あまり良くわかっていないことに気付かされる。 では、舟を自分達で造ってみたらどうなるのだろうか?ということから「ボート建造プロジェクト」はスタートした。

和舟建造の模様

和舟を造るためには・・・

 現在、和舟を建造できる造船所は数少なくなってしまっています。 軽くて耐久性の良いFRP舟などに切り換わっているためです。 数少なくなってしまった造船所を探すなど、和舟復活を進めています。

舟運進水式

 2008年6月15日に、制作していた「舟運丸」の進水式を行いました。 とても浮力のある舟で大人が7人乗ってもだいじょうぶです。 太尾小学校、新羽小学校、新羽中学校、新横浜町内会子ども会など約100名が参加し、カヌーや水害予備船などにも乗ってもらいました。

舟運検証の模様

 また、「かつてこの地域によくあった麦畑の景観を復活させたい」 「麦を使った産物・副産物について学習したい」という思いを込めて、新横浜公園で麦を育ててみました。 今回、初めて新横浜公園で麦刈りや脱穀を行いました。

新横浜公園での麦作りの模様

 そのほか、新横浜公園内の湿地帯エリアに田んぼを作り、田植えを行いました。 今回植えた品種は、インディカ米で長い藁ができる予定です。 また、周辺ではヘイケボタル復活の活動も行われています。

新横浜公園での米作りの模様

鶴見川舟運の歴史研究

昔の鶴見川

暴れ川だった鶴見川(洪水と旱魃)

 鶴見川は、全長42.5キロの一級河川です。河口から第3京浜までの17.4キロは国土交通省が管理している。鶴見川は昔から洪水を繰り返してきました。  港北区内の平地はその大半が鶴見川やその支流である大熊川、鳥山川、早淵川、矢上川などによって形成されたものです。 その本流である鶴見川は、川の勾配が緩いために水の流れが遅く、その上に流路が大きく湾曲しており、また川幅が狭いため、大雨が降ると洪水になりやすい特徴をもっています。 港北区域から下流にかけては川底が岩盤になっていて、容易には掘り取れないため、下流の川床が比較的浅い状態にあったこと。 さらに、上流にある恩田川や区内で合流している大熊川以下の支流が、支流とは呼べないほど大きいため、そこから大量の水が流れ込むといった悪条件が重なっていました。 そのため、区域での大雨はもとより、上流地域だけの集中豪雨でも氾濫することがありました。
 水はけの悪い低湿地で洪水水害に悩まされただけでなく、旱魃(かんばつ)の被害も受けていました。 これは、鶴見川が川の勾配が緩いために河口から海水が昇りやすく、満潮時には新羽橋の近くまで来たことによります。 そのため、鶴見川からの農業用水確保が困難であり、水はけの悪い低湿地でありながら、少し日照りが続くと旱魃の被害を受けたのです。
 農業に依存していた昔の人々は、その対策として多くの溜池を作りました。 現在ではほとんどが埋め立てられてしまったが、昭和30年代頃までの古い地図を見ると、溜池の存在がよく分かります。 諸岡熊野神社の「いの池」は、片目鯉の伝説で有名ですが、わずかに現存する灌漑用溜池の一つです。 水害と旱魃の両方の被害を受けたため、区域の農地は生産性が低く、人々は大変苦労しました。 特に大曲周辺の新羽・太尾地区の苦労は大きく「新羽や太尾へ嫁・婿にくれるな。蛙が小便しても大水が出る」とまでいわれました。
 現在は、洪水治水対策として平成15年6月15日に多目的遊水地が運用を開始しました。 84ヘクタールに39億リットルの水を貯めることができます。 平成16年10月の22号台風の時には125万立方メートルの水を貯めて、川の水量が調整されました。

綱島と大綱橋エリア

 縄文時代、現在の新横浜地区まで海の入り江だした。ちょうど綱島地区は細長い島上であったために綱島といわれているようです。 昔より交通の要所であり、1405年(応永12)に綱島橋が架けられました。 江戸時代は7年に1度位補修をしていたといわれています。この綱島橋は、現在の大綱橋の少し下流にありました。
 明治22年に大綱村が出来た時に、「大綱橋」と改称されました。 当時は、木造の太鼓橋で、両岸の土手の内側、河川敷から水流の上にだけ架けられていました。 昭和12年に鉄筋の橋に架け替えられました。 開通式には、横綱武蔵山や綱島温泉の芸者衆などが渡り初めをしたといいます。 現在の橋は、西側が昭和45年(1970)に、東側が昭和52年(1977)に竣工。 下流に鷹野橋がありますが、これは江戸時代に鷹場があったことのなごりです。
 明治43年(1910)の大洪水を契機として、県が中心となり両岸の堤防を改修し、大正3年(1914)に完成記念として大正堤の桜並木を作り、桜の名所となりました。 この時の築堤工事で、家を移転しなければならなくなった加藤順三(屋号を「杵屋」という)さんが新しく井戸を掘ったところ、飲用に出来ない茶色の水が涌きました。 これが綱島温泉の始まりです。 この当時、桜の名所と綱島温泉でたいへん賑わっていました。 堤防はその後、昭和13年の決壊で作り直され、昭和27年にほぼ現在の高さの堤防となりました。 綱島での鶴見川花火大会は、昭和59年(1984)に始まりましたが開発により平成11年(1999)7月30日の第16回(3,000発)を以って中止となりました。

昔の大綱橋

太尾河岸と太尾橋エリア

 大綱橋の上流にあったのが太尾橋であり、大倉山の尾根を太尾見晴らしの丘公園から下った位置、現在の新羽橋の少し下流に、昭和50年頃までありました。 鶴見川はこの辺りまで潮が遡りそれを利用した舟運が盛んで、この辺りに太尾河岸がありました。 この太尾河岸からは、ビール瓶の梱包材に使われた麦藁のツトッコが出荷されていました。
 現在の鳥山川は、新横浜駅の近くで鶴見川がカーブを描いている場所(いわゆる大曲)から分岐している支流の一つですが、 江戸時代から昭和40年代までは、太尾橋の辺りから分岐し、現在の太尾新道沿いに大曲の辺りまで流れていました。
 この川は、鶴見川の水害時の水量を減らす分水路であり、塩分を含まない真水の用水路として、干害に悩む太尾村の人々に重宝がられていました。 元禄14年(1701)には鳥山川からの用水の利用に関する取り決めがなされていることから、鳥山川はそれ以前に完成していたものと思われます。 一時はシジミがたくさん採れ、そばの堤防に桜が植えられて「桜並木」とまで呼ばれた並木道もありました。 このきれいだった川も、都市化と住宅化のあおりを受け、治水体制の整備が進んだこともあって、埋め立てられて、昭和50年の太尾新道の開通とともに消えました。

昔の太尾橋

亀甲橋エリア

 太尾橋が大倉山の尾根下にあったように新羽の尾根を下った所に亀甲橋がありました。 このように尾根下に橋ができたのは、洪水を繰り返していた歴史によるものであり、水が引き始めるところにあったようです。 また、支流の大熊川が合流する場所でもあり、川底が岩盤になっているので鮎が溯上してくるポイントになっていました。
 新羽丘陵側の対岸には小田原北條氏の軍事上拠点となった小机城址があり、太田道灌の城攻めでは亀甲橋上の新羽丘陵側に布陣が張られました。 ここには富士山信仰の浅間神社があり昔から富士山が見える場所であり、国土交通省関東地方整備局が選定した「関東の富士見百景」のひとつとなっています。 現在は多目的遊水地を見渡すことができます。